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 随分と黒っぽい広告だというのが第一印象だろう。

 しかし広告を見るだけでは想像はつかないかも知れないが、この黒さには格別の効果があったはずだ。


  男性雑誌を開いて、記事を読む。カラフルなグラビアや記事がある。

 そして次のページをめくった時、ボンヤリと夜に浮かぶようなこんな広告ページは想像以上に目立った。

 白地に黒の活字を読み慣れていた目にこんな広告ははっきりとした印象を残したはずだ。


 そのインパクトはよく訴求したいものとマッチしている。

 広告が訴求したかったものは、「男の夜の愉しみ」。





  よいカメラを買ってはどうか。

 優れた高級機を持ってみてはどうか。

 そこには別の愉しみがある。

 家族の寝静まった部屋で、男が密かに楽しむということができるはずだ。

 ためすすがめつしてカメラを触るだけで、それはきっと夜の愉しみとなるはすだ。

 このカメラを手に持てば、きっとその魅力をきっと味わってもらえるだろうから、と。


 「男の趣味」はどうか。

 と、そんな風にこの広告にはメッセージが込められたのだった。





 ただ、これがライカだの八ッセルブラッドだのと、当時ですら伝説のようなカメラだったらわからないでもないが、電子の目を持つようになった一眼レフだ。

 今の時代から考えればどれだけ訴求できたのか実感は湧かない。

 完全なアナログの時代から、フィルム一眼レフも多くのものをセンサーに頼るようになっていた。

 いくら高級機といえど、ロマンを感じるほどのものがあったろうかと思う。

 
 あるいはもしかすると、当時でもすでにライカや八ッセルブラッドなんてカメラはとっくに手の届かない伝説になっていたのかも知れない。

 だから、ちょっとした男の愉しみとしては「高級機」程度で十分だった、そんなところだろうか。

 


 しかし何より、こんな昔のカメラは「現像」というのが必要だった。フィルムも必要だった。

 ファインダーを覗いてもそうはシャッターを切るわけにもゆかない。

 今のデジタル一眼レフなら、自分の部屋で一人でシャッターを切って、その写り具合を確認することは気軽にできる。

 デジタルなら現像もフィルムも必要ない。

 
 絞り、シャッタースピード、原理は今のデジタル一眼でも同じだ。

 被写体を部屋のあちこちにして、カメラを試すなんてことは今ならできる。


 一人の夜、酒でも呑みながらデジタル一眼を構え、シャッターを切ってその性能、露出の具合を堪能するなんて、今のフィルムのいらないデジタルの方がずっと愉しめそうに思えてくる。




 そんなことを考えてみると、逆のことにも気付く。

 今のデジタルの方がずっと気軽にシャッターは切れるかも知れないが、現像が必要でフィルムを消費しなければならない昔の時代のカメラこそそんなに気軽なものではなかった、と。

 それがなおさら、男の独りの愉しみの世界を深くしたのではないか、と。


 それはまるでガン、きっと「銃」のようなものだったかも知れない。


 ハンドガンにもある種の美しさがある。
 それを趣味とし、所有するのが許される国もある。

 いくら許可されているからといって、弾をこめて夜中に部屋で発砲するわけにもゆかない。

 それと同じだったのではないか、と。




 銃は、使わなければせいぜい分解をして掃除をして油を差してやったりするぐらいが愉しみだ。

 空の銃を空間に向けて狙いをつけるぐらい。


 弾が入っていなければ撃鉄を引き起こして引き金を引くことはしない。

 弾が込められてないで撃鉄を弾くと、金属が直接当たって痛んでしまう。

 撃つ真似さえそうはできないものだ。

 銃は軽々しくは扱えない。



 フィルム一眼レフカメラの時代、やはり交換レンズを分解し、中を掃除したりはしただろう。

 男たちは独り、ホコリをハンドブロアーで飛ばしたり、レンズを磨いたはずだ。


 そんなことを手慰みとしながら、男の夜は静かに更けていったはずだ。


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