アランドロンが、その熟年の魅力で再び脚光を浴びた頃、こんな粋なデザイン調の眼鏡がよく売れたそうだ。
サングラスというのでもなく、普通の度つき眼鏡に色がついているのもあった。
これはいわゆる「大人の色つき眼鏡」と呼ばれたものだ。
それがまるで比喩のように使われて、「大人たちの偏見」なんて、そんな風にフレーズとしても普通に使われたから、確かに流行ったのだろう。
「世間は色眼鏡で見る」とか、そんな言い方だ。
もう昭和の頃にはアランドロンに象徴されるスマートな熟年と、それに対する青年の反抗という断絶は始まっていたように思える。
どうしたってそのダンディさには若造は敵うはずもない。
大人たちは苦虫を噛み潰した顔をして青年たちを嗤った。
結局は巡り巡ってその時の若者たちは今の熟年になるのだが。
しかし実のところ、こんな眼鏡が似合う人というのもあまりいなかった気がする。
なぜ色眼鏡をしているんだ、なんて、若い連中にはそんなイメージもあったかも知れない。
アランドロンのような人は別格かも知れないが、豪華で色つきでお洒落なシェイプ・・・。
ちょっとやりすぎた感じがあった。
日本人でこれが似合う人というと、石原裕次郎あたりだったろうか。
存命中の人というなら北の富士勝昭がその人だろう。
今、相撲の春場所がやっていて相撲解説者として洒脱な解説をしてくれている。
まだ意気軒昂、元気な人だ。
野望を燃やすべきは熟年であり、青年ならば大志をこそ抱くべきだ。
いい歳になった熟年は自分を振り返り、酸いも甘いも知った者として、さてこれから何をしてやろうかと考える。
彼ら煮正面からぶつかってゆく純粋さはもうない。
世間を色眼鏡で斜めに見て、騙し騙されの汚い世の中で、隠した熟年の闘志を燃やすのだ。
その報酬がこんな熟年の「カッコよさ」だったとしたら、まさに相応しい。
ヒネクレてしまった連中は色眼鏡をして世間を見るようになる。
疑い、問いかけ、いかがわしいものを見分けようとするようになる。
そんな世代への広告メッセージとしたら、言い過ぎだろうか。