この広告にあるように、「今仕込んでいるものは2000年までには世に出ない」と言っている。
だからこの広告は1983年のモノということになる。
この広告で売られているものは1966年に仕込まれたもの。
それから17年でも1983年という計算が出来る。
なんだかちょっと笑ってしまうのはなぜだろうか。ピン外れなものを感じてしまう。
あまり消費財商品から歳月というのを実感することはないからかも知れない。
「年代もののウィスキー」という巷間言われるニュアンスというのは、あくまで「年月が経って熟成している」という程度の表現でしかない。
その17年がウィスキーの味にとってどれだけのものなのか、知らない我々には押し付けがましさしか感じない。
仕込まれた1966年に思いを馳せて呑んだりはしない。
また第一、その当時の関係者らが世相を反映して、様々な思いで仕込んでいたとしたら気持ちが悪いw。
17年モノのウィスキーというだけだ。 それを強調しても何もならない。
人にとってその17年という年月を受け入れようとすれば重すぎる歳月だ。
刑務所に収監されることや冤罪での拘束を考えれば途方もない。
色んなものに年月が刻まれている。
しかし消費して消えうせてゆく商品を見て、自分が生まれた歳だの、自分が家庭を持つまでの年齢に相当するだの、そうしたことは人は連想しないものだ。
つまりこの広告のように歳月との関連はない。それはただの製造年のナンバーに過ぎない。
だいたい、そうした考え方をしたら呑む気になれるものでもない。
これは当ブログだけの個人的な感覚ということもないだろう。
誰でも硬貨に刻まれている発行年を見てしまうものだし、それが古いと気になってしまうことはある。
しかしそれで何が起きた年だったとか、自分の人生に照らして慨嘆したりはしない。
せいぜいが誕生年との一致で不思議なものと楽しむぐらいだ。
我々はつい日々を過ごしてしまいがちだ。
だからと言って、刻まれた歳月を改めて直視できるかというとそうでもない。
振り返ってみるには歳月の歩みは早過ぎるのだ。
日本のように、硬貨に発行年が描かれている国は世界では珍しいと言われる。
我が国ではどんな趣旨と意図で発行年が硬貨に刻まれているかは分からない。
硬貨の発行年を眺めてみても経済の回り方がわかるわけでもない。
ちゃんと造幣局は仕事をしているようだ、感じるのはそのぐらいだろう。