前に紹介したランサー・セレステというクルマの広告。 これは別なバージョン。
今回の広告はクルマの色がいくぶん爽やかだ。
前回の広告では黄色の微妙な色で、どこか欺瞞的なところがあった。
後ろにその黄土色のクルマが見える。
その色合いは何か乱暴なドライバー、非常識なドライバーというのを隠していたように見えたが、こんな色ならそんな気はしない。
調べてみると、このクルマはもともとは「セレステ」というシリーズで売るつもりだったものらしい。
それが、新しい車種での発売を嫌気した監督官庁のために「ランサー」シリーズのラインナップのひとつとして売ることになったとか。
一説には過ぎないというが、わかる気がしないでもない。
こうして今、落ち着いた感じのカラーリングでこのクルマを改めて見てみると、なかなかのスタイルに見えなくもない。
今ならきっと目立つことだろう。
ビンテージカーとして十分なものがあるのではないか。
それこそ、当時の傍若無人なドライバーを想像させたものとは違い、今なら落ち着いたクルマとして見れる気がする。
最近のクルマはまるでガンダムか何か、まるで「オモチャ」のようだ。
あるいは拉致でもしそうな、いかがわしさがある。
そういう印象を持つのも世情を反映してのことだとは思うが。
コピーは男性雑誌の広告にしてはファミリー的なメッセージで、クルマの宣伝としてはインパクトに欠けるように思える。
やはりまず、規制当局の目というのがあったのだろう。
昔は今よりもずっと規制当局の圧力が強く、なにをするにも交渉をする必要があった。
それだけの規制や圧力があった。
そういう窓口的な指導をしなければ大衆は自動車を凶器にし、たちまち犠牲者が出て、社会インフラは無駄に消耗し、狂った世界が出現する、そんな意識が官僚たちにはあったのだろう。
モータリゼーションという波はそれほど大きかったのだ。
しかしでは、逆に今、それだけの労力を官僚たちがかけて、素晴らしい「未来」が拓けたかというとそうでもない。
結局、成し遂げたのは官僚組織の肥大とその権力の拡大でしかなかったのではないか。
メーカーの側はこの広告のようにコソコソと官僚や世間の目を気にしながら、無責任な連中にクルマを売るだけだった。
後は知らぬ自己責任と振舞った。
「企業責任」など今に較べればまるでないも同然だった。
この当時、メーカーは規制当局を呪う前に、自分たちでコミットすべきことは山ほどあったのに。