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ジャパネット

全盛カセットテープ

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 カセットテープ全盛の時代。

 とは言っても、すでにデジタル化の波は静かにそこまでやってきていて、すぐにCDとそれに続くMp3の登場によって技術は完全に塗り替えられてしまうことになる。

 まだ社会はその変革には気づいてはいなかった。

 カセットこそポータブルで利便性があり、そして音楽を身につける最善の技術だと信じて疑わなかった。

 ウォークマンはそれこそ音楽との付き合い方にとって画期的な変化だったと言っていい。

 文明としては必然的な進化ではあったんだろうとは思うが。



 この広告では、それぞれのテープのラインナップが各種の音源に特化したものだというが、果たしてどのくらい特性に対応していたのかは分からない。

 まさか会議用のテープに音楽を録音したらまるで音質が違ってしまうということもないはずだ。

 音は音でしかないのであって、それをいかに聞きやすくするかとやったとすればイコライザー的なものになってしまい、オリジナルとは違ってしまうということになる。


 昔、人間は耳と頭蓋骨の反響で音を聞くのだとして、わざわざマネキンのような頭部を作り、その両側から音を当てて頭蓋で反響させ、人間の聴覚をシミュレーションして採録したという音源というのがあった。

 そんな話を思い出す。

 よく言われるように、我々が自分の声をテープなどで聞き返すとまるで自分の認識している声とは違っているように聞こえるという理屈である。



 このカセットテープのラインナップがイコライザ的なところなのか、マネキン的なことなのか、何を目指していたのかは知らないが、よく考えれば難しい問題ではある。


 「音源にに忠実に」というのにも、やはりそれぞれのレベルがあるのだ。

 言葉としては間違っていると思うが、「空気感」なる造語さえ広告に使われている。
 それがサーっというあのテープの音だとしたら、ヘッドが拾うノイズをそう称したのだろうか。

 それも「再現」したとすれば、「まずテープありき」の音源ということになってしまう。

 そうだとしたら本末転倒には違いがないのだが、ではテープがなくて何を音とするかと言う話になれば、結局は「人々の記憶」でしかないということになってしまうだろう。



 だから我々人間には言葉という表現があると言うこともできる。

 つまり、もっとも音源を忠実に再現できるものがあるとすれば、それは我々が音を描写し表現する言葉なのだ、と。
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 通販で有名なジャパネットの社長の話が興味深い。

 いわく、
 テレビだと「思っていたのと違う」と、クレームや返品があるものだが、ラジオではそれがほとんどない。ラジオは音声だけ、言葉での説明だけなのだが商品が「赤」と言ったらそれは誰にでも赤と受け入れられる。テレビだと赤でその色は見えているはずなのに、「思っていた赤とは違っていた」という返品がある。

 そんな逸話だ。


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写真で伝えたいこと



アザラシ

 アザラシのジャンプ。自分のカメラもペンタックスだ。
 こんな立派なタイプのデジタル一眼ではないけど。もちろんこれは昭和の一眼レフ。

 やっと手振れ補正のついたものを手に入れ、それでもヘタなもんだから写真には苦労している。

 こっちの露出をイジるとどうとか、こっちの補正かなんかだとスピードがとか、組み合わせがわからなくなってくる。
 どだい写そうと、ゴチャゴチャやってられないとか思ったりする。
 目の前のものを食うのに忙しい。景色を見ているのにカメラなんか構えてられない。
 フィルムからSDカードに変わっても、同じことをやっている。






 昔から、カメラを忘れるような人間だ。
  自分には写真で伝えたいことがあまりないのかも知れない、そんな気もする。
  そのためにこちらの何かを失うのが嫌なのだ。 

 ジャパネットのタカタ社長が面白いことを言っていた。
「テレビとラジオの通販をやっているが、ラジオでは色なんかで返品ない。アナウンサーが声だけで赤と言ったら赤で、客は納得してその赤を買う。ところがテレビだと照明の加減で思った赤と違うとか返品があったりする。」 と。

 なかなか経験に裏打ちされた面白い話だと思った。
 
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