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rollitup 広告批評

  古い広告を批評するブログです。  広告デザインや広告戦略を評論し、古い広告を見ながら感じたこともお話していています。 昭和の思い出の広告、その振り返りのこと。 記事は随時更新です。

広告から思う

プレイボーイと言うブランドを借りて

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 プレイボーイと言うブランドは様々な形になった。


 この当時、こういう、どこかのブランドを借りてきて製品を売るというやり方はまだケースとしては稀だったはずだ。


 もしかしたら、こうしたブランド自体を販売するようになる「パテント商売」というのは、このプレイボーイがハシリだったかも知れない。


 スエターやマグ、ノートなど、様々な商品にプレイボーイのウサギ(バニー)のロゴが印刷され、商品になったものだ。


 そんな風にブランドマークが流用され、色んな有名ブランドのロゴが踊った時代というのがあった。

 タバコのキャメル、スコッチのジョニーウォーカー、ポルシェ、スマイリーマーク、スヌーピー。などなど。




 いったい、これを当時買った人々というのは、どういう気持ちで買っていたのか。


 もちろん、当時でもプレイボーイ誌の硬派なところというのは注目されていなかったから、「プレイボーイのバニー」というのは単にエロ雑誌という感じのイメージだったろう。


 実は、そのジャーナリズム精神溢れる記事やルポルタージュなど、プレイボーイ誌というのは世間的なイメージよりもずっと硬派の雑誌だった。

 それがセンターフォールドを飾る女性たちのヌードのイメージが強かったばかりに、プレイボーイのロゴは間違った印象で受け入れられた。


 それはそのまま、名前の通りの「プレイボーイ」。
 軟派な「ジゴロ風の男」のイメージだ。


 だから、まるで「私は女性が好き」とでも言うようなメッセージになるとして、みながこのブランドが刻印された製品を買っていたのだと思う。

 人々は使いやすいツールを求める。

 女性との出逢いを求める男なら、そうして好んでプレイボーイのロゴを身につけた。




 例えば「サンリオ」という日本の会社は、世界でも人気のある「キティちゃん」というブランドを持っている。


 この会社はバブルの頃、会社の事業そっちのけで株式投資に血道をあげたことで有名になる。

 その利益は事業収入をさえ越え、投資収益は莫大なものになった。


 だがバブルが崩壊してその投資行動が曲がり始め、転落を始める。



 やがてサンリオはこうした投資行動を止め、事業に専念すると宣言する。

 「株式投資から手を引く」、そうサンリオは宣言した。


 そうして彼らはキティちゃんのキャラクターを世界中に売り始めた。

 今や「キティちゃん」は日本で最も露出の多いキャラクターだと言われる。



 金を出せば「キティちゃん」はどんな商品やサービスのキャラクターにも使うことが許される。



 プレイボーイも同じように、その帝国の凋落とともにブランドの販売にチカラを入れ始め、現在はなんとか持ち直した。

 プレイボーイ・バニーを売った。

 それは、創業者であるヒュー・ヘフナーの娘の才覚が大きかったということが言われている。





 ブランドというものは本来ならその商品の価値だった。

 商品そのものだった。


 しかしその商品のイメージが確立すると、ブランドそのものが一人歩きを始める。


 いいオンナのイメージ、伊達男のイメージ、洒脱、洗練、実直、などなどw。

 やがてそのブランドのロゴや存在、それ自体が社会的に何らかのメッセージを持つようになる。


 プレイボーイのロゴがこうして使われたことを考えることは、我々の社会における「記号化」というものをよく現しているのだと思う。


 世界は記号によって彩られている。




日本版プレイボーイ

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 今回は雑誌表紙で番外編。


 この写真の素晴らしさは男としてまるで文句がないw。

 この頃に「ベイウォッチ」が放送され始めたはずだからこの水着もそんな辺りの連想だろう。

 ハイレグの真紅の水着のライフセイバーの活躍のテレビドラマだ。


 写真の美しい脚には驚嘆するが、実際にこんなポージング以外だとなんてことはない普通の大柄な女性だったりする。

 髪が垂れていて顔がどれだけチャーミングかも識別しにくい。



 コマーシャリズムというのは元々はそうしたものだが、広告写真にはそういうトリックがある。

 写真家で広告写真の出身という人が大成するというのは彼らがコマーシャリズムに乗れるからだ。彼らは売れる方法をよく知っている。


 残念ながらジャーナリズムの写真では物足りないというわけか。




 この姿勢、ピンと脚を伸ばしたまま両手が地面につけられるかどうか、それで体の柔らかさを計ったりする。

 まさかこの写真はそういうところを思わせる意図はなかったと思うが、改めて見るとそんな気もしないでもない。

 自分は手がつくとか着かないとかを考えさせて人々の注目を引くという、そんな発想があったのだろうか。


 第一印象ではシェイプされた体というより、ポージングで美しい脚線美を強調しているだけと思えたが、どうか。


 オリビア・ニュートンジョンの「フィジカル」がヒットしたのもこの頃だ。


 世間はエアロビクス・ブームだった。

 猫も杓子もシェイプされたボディを追い求めた。





 日本版プレイボーイはジャーナリズムに注力した男性誌だった。

 本家プレイボーイを踏襲し、健康的な美女たちのヌードを付録にして硬派の記事がほとんどの紙面を埋めた。



 男たるもの社会への批判という目線を忘れてはいけない、事件や疑惑、世界情勢に目を注いでいなくては音とたる資格はない。

 そうして男として知的でユーモアもあり、複雑なこの世界の輻輳する問題に目を向けるというなら、こんな美女といくらでも付き合うことができる。


 そんなのがコンセプトだったと思う。

 こんな雑誌を眺めているとエロ雑誌を見ているように女子からは白眼視されたものだったが。




 それから40年近くが過ぎ、本家プレイボーイは「もうヌードは掲載しない」と宣言した。

 ネットの時代になり、事業としてはそれほど順風満帆というわけではないが、それでも細々とやっていたはずだ。
 それをヌードを止めるとはどうしたことか、そんな風に感じるのは日本から見ての印象に過ぎない。


 男たるものとか男の社会的立場とか、そんなものなどとっくに斟酌されなくなったアメリカ社会ではヌードは余計なのだ。

 ポルノはポルノ、何も混在させる必要はない。男だけのものでもない。

 もはや社会批判は男だけの専売特許ではないのだ。


 我々がまだ「プレイボーイ誌がヌード掲載を終了する」というニュースに違和感を感じているうちは、我が国は「女性の権利拡張」には遠いのかも知れない。



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