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 「ベルトーネ」という、あまり耳慣れないブランドだが、イタリアはトリノを本拠としたカー・デザインメーカである。

 あまり事業としては日本ではなじみがないかも知れないが、ベースとなる市販車を改良し、デザインを加えるというのがその付加価値となる事業の中味だ。


 この産業は日本ではあまりポピュラーになることはなかったが、一時は「カロッツェリア」と言う言葉で知られるようになった。


 カーデザインなども担当したが、基本は板金屋である。

 すでに破綻して久しい。





 パイオニアは、自社オーディオブランドの名前を「カロッツェリア」としたが、それは別にソニー製品を改造して新たなデザインでカー・オーディオにしたというわけではなかった。

 色々と誤解されやすいが、本来の意味では「カロッツェリア」とは自動車の改造のことであり、イタリアの主要な産業であった「デザイン」というもの、その優位性が如実に現れた産業であったと言える。


 まだモノが足りなかった時代。
 人々がモノを持たなかった時代をひきずった産業だ。

 人を魅了し、所有したくなるそのデザインという生産物は、人々にそれほど余裕がないからこそ憧れとなり、高い付加価値を生んだ。


 それから四半世紀あまり、人々にとってクルマは道具でしかなくなり、性能と価格が最も重要な要素となる。





 おそらく、こんなデザインメーカーが生き残り続けるというのは、最初から無理なことだったのだろう。

 エンジンとシャーシを作る自動車製造メーカーにぶら下がっていただけなのだ。


 世界の自動車産業の栄枯盛衰を話し出せば尽きない。

 結局、それは資本というものが必ず独占や寡占に向かうという、その傾向と特徴を一番示してしまう産業だからなのだろう。

 それはネットの「GAFA」を持ち出すまでもない。

 資本は拡大再生産をし、その市場は限られているだけに独占は当然の帰結だ。



 世界のトップメーカーは限られたものになり、小さなところは淘汰され吸収されていった。

 多くのブランドが中国に買収され、中味のないブランドだけに成り下がった。

 中国人はブランドを買い、結局はその中味を所有することはできなかった。


 テスラに対する過剰な期待はその株価に現れている。

 市場の期待は、電気自動車という分野での新たな独占企業の誕生というところにあるのだろうか。




 また、この「ベルトーネ」の本拠地であるトリノなどイタリア北部の都市は、とりわけ産業が勃興した時期にストライキや労働運動でたびたび摩擦が生じたことでも有名な都市である。


 トリノの街がストライキでゴミで溢れ、不衛生な状態が放置されたことも記憶に新しい。

 トリノ、ミラノ、ナポリという都市にはもともと歴史的にも混乱しやすいという性質がある。



 イタリアの工業化は早くから成功していたが、それが逆にアダとなり、近代化の果てにストライキなどの労働運動で企業は疲弊することとなった。


 彼らが産み出したイタリアン・デザインという付加価値が世界の標準となろうとする途上で、産業化に伴う労働者の権利や争議によってその歩みは挫かれたのだ。

 それもまた破綻のひとつの理由である。




 今や歴史を経て、我々人類はコロナという問題を抱えるに至った。

 これを素直に捉えれば、また小さく、つつましやかで、身の程なり、身の丈に合った生活へと戻ってゆくことになるのだろうか。


 あるいは、一度でもネットいうものを手に入れた我々人類が、かつての暮らしへと戻ることは不可能なのか。

 少なくともこれだけの災厄を経験してコロナ以前にそのまま戻ることはない。タイムスリップを期待するようなもものである。


 その次の時代の姿がどのようなものになるのか。

 当事者である我々には見えにくい。

 この「ベルトーネ」が日本で活動を始めた時代でも、彼らが破綻し消えてゆくなど誰も考えなかったろう。


 産業構造というものは時代とともに変化してゆくものだ。


 消費生活が拡大し、モノが溢れるようになると、廉価で性能が高く、価格が安いものが求められてゆく。

 商品のデザインなど第二第三の選択肢となり、それを人々は暮らしに余裕がなくなった証拠だと慨嘆する。


 どんな高級ブランドも、カロッツェリアも、デザインのマエストロたちの仕事も、結局は我々消費者の受け止め次第ということだ。

 それは文化を形作る。