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 今回は雑誌表紙で番外編。


 この写真の素晴らしさは男としてまるで文句がないw。

 この頃に「ベイウォッチ」が放送され始めたはずだからこの水着もそんな辺りの連想だろう。

 ハイレグの真紅の水着のライフセイバーの活躍のテレビドラマだ。


 写真の美しい脚には驚嘆するが、実際にこんなポージング以外だとなんてことはない普通の大柄な女性だったりする。

 髪が垂れていて顔がどれだけチャーミングかも識別しにくい。



 コマーシャリズムというのは元々はそうしたものだが、広告写真にはそういうトリックがある。

 写真家で広告写真の出身という人が大成するというのは彼らがコマーシャリズムに乗れるからだ。彼らは売れる方法をよく知っている。


 残念ながらジャーナリズムの写真では物足りないというわけか。




 この姿勢、ピンと脚を伸ばしたまま両手が地面につけられるかどうか、それで体の柔らかさを計ったりする。

 まさかこの写真はそういうところを思わせる意図はなかったと思うが、改めて見るとそんな気もしないでもない。

 自分は手がつくとか着かないとかを考えさせて人々の注目を引くという、そんな発想があったのだろうか。


 第一印象ではシェイプされた体というより、ポージングで美しい脚線美を強調しているだけと思えたが、どうか。


 オリビア・ニュートンジョンの「フィジカル」がヒットしたのもこの頃だ。


 世間はエアロビクス・ブームだった。

 猫も杓子もシェイプされたボディを追い求めた。





 日本版プレイボーイはジャーナリズムに注力した男性誌だった。

 本家プレイボーイを踏襲し、健康的な美女たちのヌードを付録にして硬派の記事がほとんどの紙面を埋めた。



 男たるもの社会への批判という目線を忘れてはいけない、事件や疑惑、世界情勢に目を注いでいなくては音とたる資格はない。

 そうして男として知的でユーモアもあり、複雑なこの世界の輻輳する問題に目を向けるというなら、こんな美女といくらでも付き合うことができる。


 そんなのがコンセプトだったと思う。

 こんな雑誌を眺めているとエロ雑誌を見ているように女子からは白眼視されたものだったが。




 それから40年近くが過ぎ、本家プレイボーイは「もうヌードは掲載しない」と宣言した。

 ネットの時代になり、事業としてはそれほど順風満帆というわけではないが、それでも細々とやっていたはずだ。
 それをヌードを止めるとはどうしたことか、そんな風に感じるのは日本から見ての印象に過ぎない。


 男たるものとか男の社会的立場とか、そんなものなどとっくに斟酌されなくなったアメリカ社会ではヌードは余計なのだ。

 ポルノはポルノ、何も混在させる必要はない。男だけのものでもない。

 もはや社会批判は男だけの専売特許ではないのだ。


 我々がまだ「プレイボーイ誌がヌード掲載を終了する」というニュースに違和感を感じているうちは、我が国は「女性の権利拡張」には遠いのかも知れない。