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 クルマ。 昭和の時代にはクルマを売るにはどんな訴求をすべきだったのだろうか。


 この広告を見ると、この時代は男たちにクルマへの「期待」を訴えていたように思える。


 それには「私」というものがあることが前提だったはずだ。

 なにしろこの広告に書いてあるように、「私の時」なのだ。

 それは成熟した大人の人間ということになる。





 そうして今は、オンナや老人たちがクルマに何かの期待を向け始めているが、果たしてそこに「私」という「自分」があるかどうかは分からない。


 オンナたちがバイクやクルマに惹かれているのも同じだ。

 その自由さゆえに彼女たちはカッコイイと思う。

 だがそこに、「自分」というのはあるのだろうか。


 コロナ自粛でまず悲鳴を上げているのはオンナや老人たちだ。

 彼らは忍耐ができず、我慢ができない。

 それが女性というものではないか。



 しかしそのコロナで鬱屈した欲求不満の解消のためにクルマを運転されたら迷惑だ。





 こうした人間を拡張する機械には責任が伴う。

 昭和の時代では仄めかすことさえ必要なかったかも知れないが、今はそれが必要なように思える。



 無神経な運転、自己中心的な挙動、ないものねだり、後先を考えない無責任さ。

 曲がってくるクルマはなぜか後続車を気にする。

 歩道を歩いている人にまるでアピールするようにして、彼らは後ろを気にするフリをする。

 そんなことはこちらの知ったことじゃない。

 しっかり止まっておけ。




 コロナで鬱屈しているのかは知らないが、ヘタな運転はカッコ悪くて自由でも何でもない。

 自分はそうやってみっともないと見られていることを分かってもらいたい。


 ただの道具でしかないものが、時にはカッコよくなったり愛着とともに相棒のようになってゆくには、まずヒトが大人でなければいけないのだ。

 コロナ以降、ドライバーの質が悪くなった気がしてならない。