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 「プレリュード」という、その言葉の意味は「前奏曲」という意味だ。

 オペラの曲のはじめとか演奏される曲のこと。

 言ってみれば、テーマソングという意味と、プロローグのテーマ、両方の意味が混じった言葉だろう。


 だから、じゃあ「フィガロの結婚」の序曲を「プレリュード」なのかというと、まるでそうは思わない。

 序曲と前奏曲とは違うのだろう。


 これは極めて曖昧な言葉ではある気がする。


 それをホンダはクルマの名前にした。




 これをアメリカ人はとことん馬鹿にしてきた。

 大いにネーミングだけで笑われてしまったものだ。


 「おいおい、いったいそれは何のプレリュードなんだよwww?」

 必ずそんな言う話になってしまうからだ。

 まるで奇妙な漢字のイレズミを勘違いして入れてしまったようなガイジン、まるでその逆をいっているというわけ。

 まあ、そこは「お互い様」ではあるwww。




 このクルマは一発目としてはパットしなかったが、この後になって「新型プレリュード」というのはそこそこの人気を博したはずだ。

 この広告は「新プレリュード」となっているが、「新型」とは違った意味だろう。
 このプレリュードが単に新発売だったからなのか。


 「新型プレリュード」というのは、それこそチャラい連中、ナンパな連中には大いにもてはやされた。

 フェアレディ、マツダZ7、そんなものよりももっと手軽であまり難しくなくて、見てくれだけはカッコイイというのに飛びついた連中がいて、それは大いにヒットしたと思う。


 結局、それはバブルという時代の流れにうまく合ったというだけだったが。


 それからすると、むしろこの第一世代のプレリュードの方に何か気骨があるような気さえしてくる。



 まだこの時期はサイドミラー問題はあったらしく、ボディの先端のよく見えるところにミラーがついている。

 これが「デザイン上カッコが悪い」と業界はクレームをつけ、やっとの思いでドアミラーが許されたいわくつきの仕様だ。


 視認性や安全性について頑として抵抗してきた運輸省に対し、アメリカとの貿易摩擦が決定的な一撃となった。
 
 アメリカは自己責任だからデザインを優先して視認性が悪くなっても個人の選択だ、なぜ日本市場ではそうした規制を押し付けるのか、不公正だというわけだ。


 安全性についてやたらと政府の規制で制限するのはおかしいということになった。



 それで漁夫の利とばかりに、日本のクルマもサイドミラーが許可されるようになった経緯がある。


 その是非は結局はどうだったろうか。

 今の日本のドライバーのマナーの悪さを考えれば、こんなカッコを気にすることなど許すべきではなかったかも知れないと今は思う。


 横断歩道に曲がってくるクルマのドライバーはなぜかみな一様に後ろを気にする素振りを見せる。

 自分は後ろがつかえているのだ、俺の責任じゃないと、まるで自分は歩行者には責任がないかのようにw。





 それにしても改めて見ればつくづく思う。

 むしろこっちの方がクルマの面構えとしては精悍ではないか(笑)。


 多勢につけば群れになる。

 そうなればカッコよさなど求めようもない。