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 日本航空が企画した「ZEROの旅」というのは、その後のバックパッカーブームに先鞭をつける形となった。

 アメリカではバックパッカーがヒッピーあたりから若者の間で盛んになってはいたが、日本はまだ流行までにはいたらなかった。

 まだ「グループ旅行」という方が多かった。


 「地球の歩き方」が出版され始めてから、これは本格的な流れとなってゆく。



 それまでは、「ジャルパック」という農協系のツアーが大きな市場だったが、世界中に買春旅行を日本人がしているというので国の恥と批判され、おおっぴらなことはできなくなった。

 また米価のこともあり、農協が弱体化していったというのもある。


 そこで日航はその風評や経済環境で萎んだ市場をテコ入れするために、「自由な旅」「若者の旅」を売り出したのだった。

 考えてみればまだ海外旅行など高い時代であった。

 為替も高かった。

 「自由旅行」なんてとんでもない話ではあったが、高度経済成長の恩恵もあり商品は上々の滑り出しとなった。


 これはまだ、若者が「自分探しの旅」に行くよりもちょっと前の話だ。

 まるでそれまでの日本人が自由きままな旅行が出来なかったかのように、プランを立て、行くところを決めて旅行するということが強調された。

 「若者の挑戦」という雰囲気が出来上がった。

 しかし所詮は海外旅行という「遊び」である。


 異文化との出会いということもなく、まだ自分探しというテーマらしいものもなく、「自由な旅」ということだけが強調されただけだった。

 これに乗っかった人々はそれまでの「ツアー」とは違ったものを発見はしただろうが、どのぐらいの成果を得られたのだろうか。

 その昔、外遊としてサムライたちが海外へ出かけて行った。

 海外の習慣を取り入れ、脱亜入欧のため日本の人材育成のために奨励された。
 
 戦後とはなっても、まだその余韻を引きずり、海外旅行というものには「遊び」があまりなかった。


 日航はマーケティングによってそれを「自由できままな旅」と国内旅行のようにすることで一般化させ、市場を開拓したのである。


 昭和の時代、「海外へ出るなら一人前の価値感を身につけてから行ったほうが良い」と言う人もいた。

 「若いうちは外遊などもったいない」とも言われた。

 そのココロは、自分というものを持っていなければどこへ行こうがカルチャーショックを受けることもなく慣れてしまうだけだ。
 新鮮な驚きに新たな境地を切り拓くこともないというものだった。


 たかだか海外旅行ごときで「異国を見聞」などと気取っていては市場は大きくならない。

 人間も大きくなりようがない。


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