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 かつて、アウトバーンは西ドイツ国民にとっては財産のようなものだった。

 ドイツは自動車産業を経済の主軸とし、そしてそのため、まずは自国に高速道路網を整備した。
 それはドイツ自動車産業の宣伝のようなものだった。

 もちろん、「制限速度なし」などと言っても、彼らはやみくもに飛ばしていたわけではない。

 事故を起こせば代償を払うことになった。

 だが、スピードを出しすぎての事故はほとんどなかった。


 そのことは昔から、日本ではまるで「謎」のように言われてきたが、その理解はどうなのだろうか。

 スピード制限がないのにスピードの出しすぎの事故がほとんどない、ということ。



 自制心が強く、常に公益的な考え方をするのが日本人と言われながら、乱暴な運転やマナーの悪さ、もはや近年は「ドライバー」というのは人格の破綻したクズばかりだ。

 そうなった理由というのはこういうことで説明がつく。


 人間と言うのは、人任せで済ませられる部分については必ず逸脱する傾向があるうということだ。それが大衆なのだ。

 それは警察権力に常にタテつく黒人がアメリカで射殺されることにも通じることだ。

 「大衆の原理」というものを知らなければ判断を誤る。


 世の中というのは、本来が無秩序が前提であるのだが、大衆にとっては違う。

 彼らは従い、言う事を聞かせられる存在だからだ。

 だから緩い規制によって大衆を正しい方向に誘導できるなどとは考えない方がいい。




 別に日本人というものが、公衆道徳において優れた道徳観があるわけではない。

 そのような判定があるとすればそれは誤りだ。

 規制されたり制限されていると思うと、大衆というものは誰でも人任せにしてしまう。
 つまり日本人であっても、そういう制限の前には暴徒と化す。

 
 例えば誰からも守られてないような公共の財産、例えば自然、あるいは公共の財産について配慮しようとしたり、韓国人の建造物への放火などには我々は注意を払っている。

 それは行政というものが無力だからである。


 そうした常に良心から動く「よきサマリア人」が日本人であったとしても、行政から規制されている中にいると思うと、彼らはとたんに責任感を投げ出してしまう。
 
 まるでそれが権利であるかのように。

 権力による制限があると分かると、物事に配慮することをとたんに放棄してしまうというのが大衆なのだ。

 
 そういうことがどの国でもあるということに過ぎない。

 別に、アウトバーンを穏やかに駆け抜けてゆくフォルクスワーゲンに、道徳的な裁量や理由があるわけでもない。
 

 大衆はそうして無責任と共感のはざまを揺れ動いているものなのだ。




 もし自分が大衆となり、いいように動かされたくない、自分の命を虫のように軽くしたくないと思うのであれば、どんなことも結局は自由で無秩序な状態なのだということを知るべきだ。

 人間はなんだってやれる。
 自爆テロもやれる。
 いつでも乱射事件を起こすことは可能だ。

 だから、行動には理由が必要になるのであり、規制されていることだけを理由にして、反抗心だけで無法をする意味などどこにもない。

 常に大義が必要になるのだ。


 中国人らの行動パターンにもそれは当てはまる。

 彼らは絶対君主に従っている。

 中国人は自分たちに自由がないと思っているから、どんな無法でも平気でするのだ。


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