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rollitup 広告批評

  古い広告を批評するブログです。  広告デザインや広告戦略を評論し、古い広告を見ながら感じたこともお話していています。 昭和の思い出の広告、その振り返りのこと。 記事は随時更新です。

2021年02月

最新 英語情報 辞典

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 辞書。

 広告では「最新英語情報辞典」ということになっているが、辞書には違いがない。


 学生らが買い求めた英語辞書はこの頃には飽和状態となり、こんな売り方が考えられたのだろう。


 しかしもう、紙の辞書を使ってる人はいないかも知れない。

 今はハンディな電子辞書もあるし、スマホもある。そしてなによりインターネットというものがある。


 翻訳も瞬時にされるから日本語のブログでさえ海外の訪問者がいたりする。

 日本文化を理解するのに生の情報を見に来ているというわけだ。それが「もぎたての情報」ということになる。

 

 電子辞書にしても検索の履歴が確認できたり類義語も瞬時に出てくる。

 すでに機能としては完成したといえるだろう。

 流行語から、最新の慣用句、辞書にすれば数冊分のコンテンツが詰まっている。


 だから、こんな広告のように紙の辞書にワクワクできた時代というのが遠い昔に思える。

 この広告のように毎年新しい辞書を買う人もいた。




 それにしても下のイタリア語の辞書というのは目を引く。

 随分と高いものだ。

 イタリアはそれほどマイナーな国とは思えないが、確かにスペイン語などとは違ってイタリアとスイスの一部でしか使われていない。


 ローマ市外地図がついているということ(笑)。誰得ww。


 まさかイタリアでのバカンスのために持ってゆけ、そんな趣旨なんだろうか(笑)。


 イタリア語と英語は似ている部分も多いから、あまり困ることもないはずだが。




 こういうイタリア語辞書の存在を考えると、「数ヶ国語を話す」なんてのがいかに怪しいものかというのが分かる。

 「喋れる」というのと「辞書を使う」というのは格段の違いがあるということを改めて思うからだ。



 だいたい、自国語以外の言語の世界を渉猟し、情報の深い部分を知るのに、数ヶ国語にまで守備範囲を広げられるものだろうか。


 なにしろ日本語でさえ語彙に乏しく国語の理解力が足りない人がいるのだ。




 「辞書を使うクセをつけよ」 なんて昔はよく言われた。

 文章というのは読んでいけば多少は意味の欠落している単語があっても全体の流れから文章の意味は通じてしまう。

 しかしそれではいけないのだ、と。

 細かな表現の差、ニュアンスの違い、隠された韻や文章のスタイルまで理解せよと教えた。



 学習の本質としてはそれで合っている。

 「言語感覚」という教養は身につけて無駄になるものではない。

 しかしFEDウォッチャーになるならともかく、実際に人とコミニュケートするならそれほど辞書は必要ない。





 「人と意思疎通できるか」ということと、「文献や記録、人でないものからも情報が掴めるか」ということの違いがそこにある。


 途上国の人々は英語圏に経済を頼んでいるため、やたらと「英語力」というのを気にする。

 ああいう人々というのは形式的な文法に固執しながら、結局は前者のような「人との意思疎通」程度しかできない。


 だから英語力を気にする連中というのは扱いが厄介だ。

 発想が貧困で他力本願、形式にこだわるので使えない。ビジネスでありながらまるで学生のように振舞う。


 それはインドネシア人、フィリピン人、アジアのほとんどの国の人々がそうだ。

 インド人が、嘲笑されるキャラとしていつの間にかハリウッドに定着してしまったのはそんな「英語使いの滑稽さ」があるからだ。



 我々日本人は経済発展を遂げ、英語という単純な言語に傾く必要はそれほど必要がない。

 むしろ日本語でのニュアンスや論理性、理屈というものをこそ追求すべきだろう。


 それは「言論」ということ。

 日本語で伝える論旨の流れを大事にし、文章から滲み出る複雑なニュアンスを追求すべきなのだ。


 もし今、紙の辞書を買うというなら日本語を買うべきか(笑)。


バランタイン・スコッチ

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 この広告にあるように、「今仕込んでいるものは2000年までには世に出ない」と言っている。


 だからこの広告は1983年のモノということになる。


 この広告で売られているものは1966年に仕込まれたもの。

 それから17年でも1983年という計算が出来る。



 なんだかちょっと笑ってしまうのはなぜだろうか。ピン外れなものを感じてしまう。


 あまり消費財商品から歳月というのを実感することはないからかも知れない。




 「年代もののウィスキー」という巷間言われるニュアンスというのは、あくまで「年月が経って熟成している」という程度の表現でしかない。

 その17年がウィスキーの味にとってどれだけのものなのか、知らない我々には押し付けがましさしか感じない。


 仕込まれた1966年に思いを馳せて呑んだりはしない。

 また第一、その当時の関係者らが世相を反映して、様々な思いで仕込んでいたとしたら気持ちが悪いw。


 17年モノのウィスキーというだけだ。 それを強調しても何もならない。


 人にとってその17年という年月を受け入れようとすれば重すぎる歳月だ。

 刑務所に収監されることや冤罪での拘束を考えれば途方もない。




 色んなものに年月が刻まれている。

 しかし消費して消えうせてゆく商品を見て、自分が生まれた歳だの、自分が家庭を持つまでの年齢に相当するだの、そうしたことは人は連想しないものだ。

 つまりこの広告のように歳月との関連はない。それはただの製造年のナンバーに過ぎない。


 だいたい、そうした考え方をしたら呑む気になれるものでもない。




 これは当ブログだけの個人的な感覚ということもないだろう。

 誰でも硬貨に刻まれている発行年を見てしまうものだし、それが古いと気になってしまうことはある。


 しかしそれで何が起きた年だったとか、自分の人生に照らして慨嘆したりはしない。

 せいぜいが誕生年との一致で不思議なものと楽しむぐらいだ。



 我々はつい日々を過ごしてしまいがちだ。

 だからと言って、刻まれた歳月を改めて直視できるかというとそうでもない。

 振り返ってみるには歳月の歩みは早過ぎるのだ。





 日本のように、硬貨に発行年が描かれている国は世界では珍しいと言われる。

 我が国ではどんな趣旨と意図で発行年が硬貨に刻まれているかは分からない。


 硬貨の発行年を眺めてみても経済の回り方がわかるわけでもない。


 ちゃんと造幣局は仕事をしているようだ、感じるのはそのぐらいだろう。

 
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