<$BlogTitle ESCAPE$> rollitup 広告批評 

rollitup 広告批評

  古い広告を批評するブログです。  広告デザインや広告戦略を評論し、古い広告を見ながら感じたこともお話していています。 昭和の思い出の広告、その振り返りのこと。 記事は随時更新です。

2021年01月

冬とクルマ


Save0034
 
 
 

 「クルマで初雪を見に行こう」、なんて、この広告は軽く呼びかける。

 ちょっとそんな気になってしまうような広告だ。

 雪の里、火の見やぐらがある寒村を写しているから、どうしたってこの広告は「都会モノ」へ向けたものなのだろう。


 この広告で誘われていることは、普通の感覚になっていたのだろうか。


 移動手段としてのクルマは、いつからそんなちょっとした思い付きや気まぐれが満たせるほど、手軽なものになったのだろうか。



 この広告の時代の前には、雪国で暮らす人々ならいざ知らず、都会暮らしや暖かい地域の人たちがわざわざ雪の道へ出かけるということはほとんどなかった。

 それはリスクであったし、無謀なこととされた。

 「経験がないのであればやめたほうがいい」、まるで登山をする初心者に忠告されるようにドライバーは言われたものだ。



 それはわざわざトラブルを抱えに行くようなものだったし、たとえ必要があっても「無理をしないで」なんて話に必ずなったものだ。



 日本の地方にはそれぞれの暮らしがあり、雪国の人々にはそこで暮らす智恵とノウハウがある。

 それを、わざわざ都会からクルマで出かけて行けば、彼らとはスキルが違うのは歴然としている。

 彼らが困難に直面することは目に見えていた。

 自然は厳しいのは今も昔も変わらない。


 ただ、人々の移動が盛んになり、タイヤメーカーは「大丈夫だ」と、こうして人々の移動の需要を喚起した。


 クルマという「自由」があり、移動手段の可能性は無限になったのだ、ちょっとした思い付きで、雪を見に行ってもいいじゃないか、と。

 
 それはいつの間にか、怖いもの知らずで無謀なこととはされないようになったかも知れない。


スポンサードリンク

 しかし結局、タイヤメーカーとて雪道をドライブするのは結局は自己責任だと知っていた。


 どんなにタイヤが高性能であっても、1トンを越える人間が押すことさえままならない鉄の塊とともに雪道を行くのは不要不急であれば無茶なことだ。


 この広告に訴求力があったとすれば、そんなリスクをわざわざ冒せるほど豊かで浮かれた時代だったと言える。バブルの時代だった。


 やがてこの頃にはスキーブームが訪れ、ゲレンデには都会ナンバーが溢れることになった。

 スキーを楽しむということが、都会暮らしの人々が雪道をわざわざクルマで出掛ける理由にもなった。


 タイヤチェーンのつけかたを知らない人々が困ったり、満足な用意もせずにスキー場に行こうとして立ち往生してしまうなんてことがよく起きた。




 そして今、コロナのせいで外出や旅行がされなくなり落ち着いた暮らしが戻ってきて、我々は不要不急の外出やドライブを控えるようになりつつある。


 しかしタイヤが減らなければタイヤは売れない。

 ここでどんな風に需要を喚起したらよいのか、あるいはまた、まだかつての時代風景にこだわり続けるのがよいことなのか、まだジャッジはできない。


 少なくともバブル崩壊どころか、今回のコロナの感染拡大をキッカケとして、不要の外出にはリスクが伴い、徒な行動は愚かなことだというのが認識されつつある。


 だいたい、初雪を見たくなったら雪国のブログやサイトを訪問してみればいいのだ。そんな時代なのかも知れない。

 今でもそんな暮らしになりつつある。




 最近も降雪のせいで北陸自動車道で400台もの自動車が立ち往生し、クルマが動けなくなり、30時間もの間車内に閉じ込められた人々が出た。


 考えてみれば30時間というのは生命に関わるほどのリスクだ。

 幸いにして行政や救命関係者などの多くの手助けがあり、死者は出なかったが、いつからこうしたことにリスクがないかのように勘違いされ、危険が見過ごしにされるようになったのだろう。


 そして世間は、影でそうした手助けをしてくれる人々の苦労を知らない。


ホンダ・プレリュード

Save0036


 

 「プレリュード」という、その言葉の意味は「前奏曲」という意味だ。

 オペラの曲のはじめとか演奏される曲のこと。

 言ってみれば、テーマソングという意味と、プロローグのテーマ、両方の意味が混じった言葉だろう。


 だから、じゃあ「フィガロの結婚」の序曲を「プレリュード」なのかというと、まるでそうは思わない。

 序曲と前奏曲とは違うのだろう。


 これは極めて曖昧な言葉ではある気がする。


 それをホンダはクルマの名前にした。




 これをアメリカ人はとことん馬鹿にしてきた。

 大いにネーミングだけで笑われてしまったものだ。


 「おいおい、いったいそれは何のプレリュードなんだよwww?」

 必ずそんな言う話になってしまうからだ。

 まるで奇妙な漢字のイレズミを勘違いして入れてしまったようなガイジン、まるでその逆をいっているというわけ。

 まあ、そこは「お互い様」ではあるwww。




 このクルマは一発目としてはパットしなかったが、この後になって「新型プレリュード」というのはそこそこの人気を博したはずだ。

 この広告は「新プレリュード」となっているが、「新型」とは違った意味だろう。
 このプレリュードが単に新発売だったからなのか。


 「新型プレリュード」というのは、それこそチャラい連中、ナンパな連中には大いにもてはやされた。

 フェアレディ、マツダZ7、そんなものよりももっと手軽であまり難しくなくて、見てくれだけはカッコイイというのに飛びついた連中がいて、それは大いにヒットしたと思う。


 結局、それはバブルという時代の流れにうまく合ったというだけだったが。


 それからすると、むしろこの第一世代のプレリュードの方に何か気骨があるような気さえしてくる。



 まだこの時期はサイドミラー問題はあったらしく、ボディの先端のよく見えるところにミラーがついている。

 これが「デザイン上カッコが悪い」と業界はクレームをつけ、やっとの思いでドアミラーが許されたいわくつきの仕様だ。


 視認性や安全性について頑として抵抗してきた運輸省に対し、アメリカとの貿易摩擦が決定的な一撃となった。
 
 アメリカは自己責任だからデザインを優先して視認性が悪くなっても個人の選択だ、なぜ日本市場ではそうした規制を押し付けるのか、不公正だというわけだ。


 安全性についてやたらと政府の規制で制限するのはおかしいということになった。



 それで漁夫の利とばかりに、日本のクルマもサイドミラーが許可されるようになった経緯がある。


 その是非は結局はどうだったろうか。

 今の日本のドライバーのマナーの悪さを考えれば、こんなカッコを気にすることなど許すべきではなかったかも知れないと今は思う。


 横断歩道に曲がってくるクルマのドライバーはなぜかみな一様に後ろを気にする素振りを見せる。

 自分は後ろがつかえているのだ、俺の責任じゃないと、まるで自分は歩行者には責任がないかのようにw。





 それにしても改めて見ればつくづく思う。

 むしろこっちの方がクルマの面構えとしては精悍ではないか(笑)。


 多勢につけば群れになる。

 そうなればカッコよさなど求めようもない。



ブログ村プロフィール
にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ
PVアクセスランキング にほんブログ村
toremaga_80_15_1_blk