昔は「男は足元を見られるものだ」さんなことを言われた。
その足元が貧相だと人間まで貧相だと決め付けられてしまう、と。
そうなるとなかなか見直してくれることはない、と。
昭和によく言われた話だ。
良い靴というのが貴重だった時代があって、アメリカでは「靴磨きが相場の話をしてきたら終わりだ」と、恐慌を予想したという話なんかがある。
景気がよければ、靴磨きはみながよい靴を履くようになったことが分かる。
だから靴磨きも乗ってみようかと思う。
だが、そこが天井だ。
みなが靴を気にして、靴を中心にした米国ウォール街の日常というものがあった。
靴は成功の度合いに応じて買い換えられ、今の生活を反映したものだからだ。
それが時計、つまり「手元」だったりする。
髪、つまり「襟足」だったり、歯並びや眼鏡なんてものもある。
結局は世間いうものは何かの基準に飛びつきたいというだけのことかも知れない。
女性は脚が見られることはあっても足元を見られることはない。その美しさは全体に滲み出るものだ。
一方、男性は何の仕事なのか、どんな行動パターンなのか、もろもろ観察されていること、男には社会的な立場というものがあるので男性は靴が身だしなみだとされるようになった。
しかしそれは僅かの時間のことだ。
歴史的に我が国で武士が草履にこだわったなどと言う話はない。
秀吉が温めた信長の草履、大将の靴を繕って見栄えを良くしてやったわけではない。
「脚下照顧」という成語があり、「足元」は、「脚下」だ。
その立場や状態が所作ひとつ、脚捌きひとつで身分さえ分かるから言われたことだ。
身分制度の時代だ。
そうして挙句にはカネ払いが値踏みされたりする。疲れていれば足元は覚束ない、多少の金額でもカゴに乗るだろう、と。
米国のように身分のないところに靴という基準から判断しようとする必要はなかった。
昭和の時代というのは、そうした過去の伝統と現在の価値観が混在し混ざり合うことを許した。
浮ついた時代でもあった。
だから表面的な作り話が容易く人の心に入り込んだ。
都市伝説みたいなものも多く通用して流布された時代だ。
男がこんな靴クリームで手入れをしている間抜けさ、タッセルシューズごときでいなせだと考えてしまう単純さ。
今なら誰もが鼻で笑ってしまうことだろう。
今、まだ勘違いのそんなお洒落を続けている連中は年寄りぐらいのものだ。
靴が自分に合っていなければしょうがない。
いざという時に動けないのでは困る。 一日一万歩ぐらい歩かないでどうする。
よい靴を履こう。それは自分の足に合った履きやすい靴、動きやすい靴のことだ。
そうでなければ今は命さえ落しかねない。
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