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 一眼レフの広告が続いている。

 これはスポーツとその感動の瞬間を「撮れる」というアピールがある。


 スポーツなどこの前の東京五輪ですっかり醒めてしまった感があるから少し白々しい。

 人が走るのを見るより自分で走っていたほうがよっぽどいい。


 人のやる競技を見てもそれはあくまで擬似的なスポーツ体験、それは偽のものだ。

 あるいはゲーム観戦と言ったりもする。

 それは「スポーツ」ではない。





 この広告では「人間性を撮る」 なんて言っているのだが、この時はどうだか知らないが、カネに狂った今のスポーツでどうだろうか。

 こんなオリンピックなどで喜ぶ人間性など楽しみに飢えているだけの寂しい心しかないのではないか。

 そこにはきっと愚かな人間性しか見えないはずだ。


 結局、「現場を見ている」的なアピールの裏がこれだ。

 報道とはそのストーリーを語れる場面に出くわしてシャッターを切るのに対し、これはそのシャッターを切らねばならないその決定的な場面だと俺は分かるのだ、そんなアピール。


 いわく、我々には人間性が分かりレンズを通してその表現が出来る、というわけだ。


 なんという傲慢な偽善だろう。

 そんな自己アピールをして商品であるカメラが売れたのだろうか。

 この広告は、だからカネを払うべき才能があるとしているのだろうが、そんなものは才能でもなんでもない。

 こういうのが「感動の押し付け」でしかないのは今も昔も同じなのだ。





 かつて写真機に多くの可能性を感じた人たちがいた。

 マン・レイなどはこの写真機という道具を使い興味深い写真を作った。それはひとつの表現だった。

 彼はよく写真というものを理解していた人だと思う。

 その場面を切り取るという、写真機という道具自体を表現してみせたのだ。


 今からすれば古臭くて底が割れてしまうものだが、この広告の当時はそうした道具を使う主役は自分であるというものだ。

 昔はどんな偽善となろうとも平然と「実力がある」などとアピールしたものだった。

 結局は写真機の性能でしかなかったのだがw。


 こんなアピールがこのカメラメーカーの広告でされたことは皮肉でしかなかった。


 あたかもどんなカメラを買っても、写せるものは限られているのだと、所詮はプロには勝てないものだとアピールしてしまっているからだ。

 どれだけこの商品広告が販売に寄与したか、それは分かりようもない。