「コピーライター」という職業。
はるか昔、こういうハッタリ屋が跋扈していた時期があった。
宣伝部なんてところから多くの作家が生まれたり、スピンアウトして活躍した時期というのがあって、その流れでコピーライターも、なんて、わざわざ才能があると囃し立てた。
あれはバブルの頃だったか。
「鉄が浮かんで木が沈む」なんて言って、浮かれた時代だった。
こんな商売がもてはやされ、表現者だとされたのだから薄ら寒い。
「担ぐ神輿は軽い方がいい」、けだし名言である。
ごく最近のこと、元コピーライターとかいう老人が発言を炎上させていたらしいが、あれなんかもそんなバブルの頃に担がれた自称コピーライターの一人だ。
わざとやっている炎上。なんとか見てもらおう、忘れられないようにするわけだ。
世間からすっかり聞かなくなった人間が注目されようとする。まるで餓鬼道のようだ。
宣伝コピーなんて、胸を打つものは僅かでしかない。記憶に残るものは少ない。
製品がよほど記憶に残っていればというぐらい。つまり逆だ。コピーなど残らない。
考えてみればこういう宣伝コピー偏重というのは今のネットでよく言われるSEOなんて言葉を連想させる。
ブログやホームページでよく言われることだ。
「SEO」なんてまことしやかに言われるが、要は検索エンジンに引っかかろうとする工夫だ。
それはまるで「テレビに取り上げてもらえれば売れる」というのと変わらない。
こういうことはとても昔のコピーライター的なことだと思う。
こんなSEOの言説でよく言われる、検索キーワードだの「ビックワードを狙え」だのと聞くと、つくづくそんな気がしてしまう。
とにかく世間の注目を浴びればいい、それだけだからだ。
中味はない。品質も不明だ。
「XXXを5分で解決する5つの方法と3つの結果」なんて記事がある。
SEOの教科書ではこうしたタイトルがいいと言う(笑)。 開いてみたらまるでポイントのない記事だったりする。
コピーライターも同じように商品を注目させればよいと、そんな小手先のテクニックだった。
挙句には痛々しい文句、衝撃的な文句、ブラック、シニカル、ナンセンスでCMは溢れ返った。
「モノづくり」とやらはどこへやら。
消費者を馬鹿にした売り方が昔は花形とされたのだ。
ナナメにモノを見てばかりの連中が生まれたのもそんな時代を反映しているのかも知れない。
彼らも今は壮年だ。
今なら「世間の注目を浴びる」どころではない、検索エンジンに引っかかる記事にみせかけろ、そのためにキーワードを選べとやっている。
機械相手のまやかしが通用するていたらくだ。
いずれ、コピーライターが廃れていったのと同じように、そんなクズ記事がネットでもて囃されることもなくなるのだろうか。
それを望みたい。
誠心誠意、商品の本質を訴求するなんてことはやらなかった。
消費者は馬鹿でノセられやすい。雰囲気とイメージだけで売れ、そんな傲慢さが横行した。
ただ注目を浴びるためのこと。
だからこの頃は派生商品というのがほとんどない。
中味があるものであれば派生商品が生まれる。スマホのケースやアクセサリーはアップルが求めて作られているわけではない。
そうしてスマホに派生するサービスも生まれ市場が広がってゆく。
その意味ではアップルはまだ安泰だろう。
ちょっとしたテクニックを使うだけでとにかく話題になればいい、そうやってコピーライターたちはコマーシャルを作った。
この記事のカーコンポの宣伝コピーにしてもなんだろうと思う。
「歌のない日々」って、「曲のない日々」ではないのかと思う。
ロンサムカーボーイを気取って、それが「歌」じゃ演歌や歌謡曲というニュアンスだ。
「曲に触れない日々を過ごしてきた。
街は荒野のように音を感じなかったから。」
なんて、やるならせいぜいそんな感じじゃなかろうか。
このコピーには主人公となる人物の個性が感じられない。ただのフリ、雰囲気でしかない。
都会の殺伐さを潤す音楽を感じたい、せめてそれがクルマの中。
それがカーコンポなんだ、そんな風にやりたかったはずだ。
それがただの寂寞なんてポーズになり、甘えた子供がフリする道具、ガラクタ、腐った飾り物に成り下がってしまう。
まあこのパオニアという会社もたいがいだったとは思うのだが・・・。
・・・まあここで添削しても意味はない(笑)。
はるか昔、こういうハッタリ屋が跋扈していた時期があった。
宣伝部なんてところから多くの作家が生まれたり、スピンアウトして活躍した時期というのがあって、その流れでコピーライターも、なんて、わざわざ才能があると囃し立てた。
あれはバブルの頃だったか。
「鉄が浮かんで木が沈む」なんて言って、浮かれた時代だった。
こんな商売がもてはやされ、表現者だとされたのだから薄ら寒い。
「担ぐ神輿は軽い方がいい」、けだし名言である。
ごく最近のこと、元コピーライターとかいう老人が発言を炎上させていたらしいが、あれなんかもそんなバブルの頃に担がれた自称コピーライターの一人だ。
わざとやっている炎上。なんとか見てもらおう、忘れられないようにするわけだ。
世間からすっかり聞かなくなった人間が注目されようとする。まるで餓鬼道のようだ。
宣伝コピーなんて、胸を打つものは僅かでしかない。記憶に残るものは少ない。
製品がよほど記憶に残っていればというぐらい。つまり逆だ。コピーなど残らない。
考えてみればこういう宣伝コピー偏重というのは今のネットでよく言われるSEOなんて言葉を連想させる。
ブログやホームページでよく言われることだ。
「SEO」なんてまことしやかに言われるが、要は検索エンジンに引っかかろうとする工夫だ。
それはまるで「テレビに取り上げてもらえれば売れる」というのと変わらない。
こういうことはとても昔のコピーライター的なことだと思う。
こんなSEOの言説でよく言われる、検索キーワードだの「ビックワードを狙え」だのと聞くと、つくづくそんな気がしてしまう。
とにかく世間の注目を浴びればいい、それだけだからだ。
中味はない。品質も不明だ。
「XXXを5分で解決する5つの方法と3つの結果」なんて記事がある。
SEOの教科書ではこうしたタイトルがいいと言う(笑)。 開いてみたらまるでポイントのない記事だったりする。
コピーライターも同じように商品を注目させればよいと、そんな小手先のテクニックだった。
挙句には痛々しい文句、衝撃的な文句、ブラック、シニカル、ナンセンスでCMは溢れ返った。
「モノづくり」とやらはどこへやら。
消費者を馬鹿にした売り方が昔は花形とされたのだ。
ナナメにモノを見てばかりの連中が生まれたのもそんな時代を反映しているのかも知れない。
彼らも今は壮年だ。
今なら「世間の注目を浴びる」どころではない、検索エンジンに引っかかる記事にみせかけろ、そのためにキーワードを選べとやっている。
機械相手のまやかしが通用するていたらくだ。
いずれ、コピーライターが廃れていったのと同じように、そんなクズ記事がネットでもて囃されることもなくなるのだろうか。
それを望みたい。
誠心誠意、商品の本質を訴求するなんてことはやらなかった。
消費者は馬鹿でノセられやすい。雰囲気とイメージだけで売れ、そんな傲慢さが横行した。
ただ注目を浴びるためのこと。
だからこの頃は派生商品というのがほとんどない。
中味があるものであれば派生商品が生まれる。スマホのケースやアクセサリーはアップルが求めて作られているわけではない。
そうしてスマホに派生するサービスも生まれ市場が広がってゆく。
その意味ではアップルはまだ安泰だろう。
ちょっとしたテクニックを使うだけでとにかく話題になればいい、そうやってコピーライターたちはコマーシャルを作った。
この記事のカーコンポの宣伝コピーにしてもなんだろうと思う。
「歌のない日々」って、「曲のない日々」ではないのかと思う。
ロンサムカーボーイを気取って、それが「歌」じゃ演歌や歌謡曲というニュアンスだ。
「曲に触れない日々を過ごしてきた。
街は荒野のように音を感じなかったから。」
なんて、やるならせいぜいそんな感じじゃなかろうか。
このコピーには主人公となる人物の個性が感じられない。ただのフリ、雰囲気でしかない。
都会の殺伐さを潤す音楽を感じたい、せめてそれがクルマの中。
それがカーコンポなんだ、そんな風にやりたかったはずだ。
それがただの寂寞なんてポーズになり、甘えた子供がフリする道具、ガラクタ、腐った飾り物に成り下がってしまう。
まあこのパオニアという会社もたいがいだったとは思うのだが・・・。
・・・まあここで添削しても意味はない(笑)。