よく言われたことだ。古いものを大事にし、カネをかけ、エスタブリッシュメントとしての責任を果たすことが遊びにつながるということ。
最上の贅沢とは責任を果たすことなんだ、そうした呟きが聞こえた時代はあった。
最上の贅沢とは責任を果たすことなんだ、そうした呟きが聞こえた時代はあった。
ツイッターなんかじゃない。そういう独り言にまだ匂いがあった時代の話だ。
クラシックカーのオーナーとなるのはその象徴なんだと言えた。そんな主張が通用した時代はあった。
派手すぎれば呑気な若旦那になってしまいみっともない。そのバランスも大事だった。
子供っぽさは自分の中の遊びの部分であり、自身の中にそれを見守る大人がいるのだと。
カネと時間の使い方を知らない奴は無駄な生き様を晒しているだけの無能なのだと。
カネがあるなら趣味人たれ、そんな風に言われた時代は遠い。
しかしそれは、考えてみればそんなに大きなカネじゃなかったからできたことだ。
IPOで分不相応にカネができて、月に生きたいだのアイドルを奴隷にしただのと、まるで宝くじに当たったように醜態を晒しかないのもいる。
連中のクチにするものは我々とは比べくもない、実に哀れなものだ。「目黒のサンマ」のような滑稽さしかない。
こう考えると、クラシックカーも今は嫌らしい趣味でしかなくなった気もしてしまう。
責任と言えばやることは山ほどある。小さなことで悦に入ってるようでは無駄なばかりだ。あり余るカネも使い道がないのでは紙くずだ。
カネと時間の使い方を知らない奴は無駄死に。これは今でも生きている教訓だ。
まだこんな時代は、「金持ちの放蕩息子」と言えども、カッコよく生きれたのだろうか。
高須先生は慈善に目覚めたという。「地球で一番金持ち」というジェフ・ベゾスがどんなクルマで遊んでいるかは知らない。
格差の挙句、使えるとこなどなくなって、日本もそうなってゆくしかないんだろうか。
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