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  ソニーの「ウォークマン」という革命的な製品の発売によって、世の中の生活は確実に変わった。
 それは厳然とした事実だ。

 「音楽を身につける」 、「音楽を聞きながら歩く」というのは、我々のライフスタイルにとって革命といってよいほどのインパクトがあったことだと思う。


 「音楽を聴いているから聞こえなかった」、ちょっと古い人ならこの感覚はなかなか馴染めないに違いない。

 音楽や騒音はそこに包まれるもので、我々が手元に持つものではない。

 全てが変わった。



 しかし、あまりこの革命性が強調されないのは、日本のメーカーが激しくシノギを削っていたという産業競争の事情というものがあるのだと思う。

 もちろん、日本はそういう競争によって成長することができたというのはある。

 それが悪かったわけではない。


 製品名称も、ウォーク・マンは「マン」だから、これに対抗する相手は「ボーイ」というわけだ。

 ちなみに、なぜか「テレコガール」とか「カセットギャル」みたいなものはなかった。

 最近の議論で言えば、この当時はまだ男性主導の社会、女性参画が限られていた時代だったと言えるだろうか。
 笑止w。そんなことはないだろう(笑)。


 そういう今の言葉狩りがあるなら、今ならどうだろうか、「カセット人」か(笑)。



 言いたいことは産業史におけるこうした製品の扱いについてだ。


 例えばT型フォードの発売やエジソンの電球。ウィンチェスター銃。
 あるいは近年ならバイアグラであってもいい。

 そうした産業史に名を残す製品というのは、みなそれほどの競合がなかったものだと言える。

 激しい競争の中、同種の製品や商品が各社混在して競合したものというのは、いくらその革命的な生活の変化、そこにいかに人々の暮らしに大きく与えた影響があったとしても、産業史のマイルストーンとして取り沙汰されることはない。

 タイプライターの革新性を言われることはない。
 いっそそれならグーテンベルクをというわけだ。


 きっと世間は、こういう製品については単に「時代の潮流」として片付けてしまうからなのだろう。


 同じようにパソコンもそうだった。
 ウィンドウズやアップルコンピュータも、あくまでコンピューティングの時代の潮流の中にいたというだけなのだろう。





 確かに彼らはみな、何かの社会変革を成し遂げた者の称号を得ようとして活動し、製品を世に送り出していたわけではない。

 しかし「時代史」ということを考えるとき、そういう競合の激しいものがそれ故に度外視されるということは、その基準に何か不公平なものを感じてしまうのだ。


 ノーベル賞やアカデミー賞のような、何か公正でないものを感じてしまうのだ。

 産業史研究という分野、技術史という分野には何か違うものを感じざるわけにはゆかない。


 それとも、こういう考えは、単なる郷愁的なだけなのだろうか。


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