<$BlogTitle ESCAPE$> rollitup 広告批評 

万年筆

万年筆、モンブラン

モンブラン


 ある程度の歳なら、まともな男なら誰でも一本は持っていた、そう言ったら言い過ぎだろうか。

 万年筆のモンブランというのはなかなかのブランドだった。

 わざわざ洋行帰りに土産に買って帰ってきたりしたものだ。


 万年筆というのは、筆のようなもので、先の向きによってラインが太くなったり細くなったり、それこそサインなんかにはちょうど良い。

 ボールポンなんかだと均一の太さしかないラインだからつまらないが、万年筆はふくらみを持たせることができる。

 この広告にしてももパスポートなんかに挟んでいるから、やはり「サイン」というのを意識したものがあるんだろう。


 このインクを充填できるカートリッジにしたところがアイディアで、筆を持ち歩くことが出来るようになった。

 暫くは万年筆、ボールペン、シャープペンシル、鉛筆と、筆記具が華やかに共存していた時代があった。



 今は、パソコンやスマホがある。
 それとの使い分けとして考えると万年筆の出番はあまりない。

 ボールペンで済ませてしまう人が多いだろう。



 筆記用具の主役や変遷を考えると、シャープペンシルや鉛筆というのには随分と無駄な時間を使ったものだ。
 子供の頃の話。

 消しゴムというのがご丁寧にあったから、書いたものを修正するということで、なんでも消したり書き直したりしたものだ。
 あれはムダだったと思う。
 すぐに気がついてボールペンだけを使うようになった。


 子供心に社会を知り、世の中は取り消し線で済ませられるということが分かる。
 そしてそれが身につくようになって、ボールペンを多様するようになった。

 間違いはそれとわかるように取り消せばいい。今はパソコンでも取り消し修正の装飾が使われる。


 万年筆もその頃はまだ持っているぐらいで使いこなすことはなかった。
 歳をとっても万年筆はサインぐらいには使うぐらい、正式な書類なんかに記念につかうぐらいだった。
 この昭和の時代、モンブランの万年筆がステイタスになったとは思わないが、ちょっと大人の気分はしたかも知れない。


 そのうちインクが溢れて服が汚れたり、乾いたインクで使い物にならなかったり、いざという時の使い道としては頼りにならない気がしてきた。

 本当は道具なのだから大事にメンテナンスしてやれば問題はなかったはずのだが、筆記用具ごときと、だんだんと存在は軽くなっていった。


 結局、筆記具は、「取り消し線」というものに尽きるんではないかという気がする。

 人生は取り消せば残ってしまう。離婚のバツがそれだ。


 子供たちにはまだ間違ったものは消してやり直せるということを教えていた。
 それは間違っていた。

 早めに取り消し線を覚え、メモや走り書き、それこそ講義ノートを取るということなんてさっさとやったほうがいいと、誰もが早く気が付くべきだった。

 これに気が付いた子とそうでない子との差は開いたろう。

 体裁を気にしながら間違いを消して直す。
 誰がみるわけでもないのに。


 あの消しゴムの習慣は、残酷なほど子供たちに差をつけたことだろうと思う。

 そうして、そういう子供は万年筆を知らないまま歳をとったはずだ。

 そんな大人は、使い物になるような人間ではないはずだ。

 


にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ   
この記事が悪くなかったらクリックをお願いします! 


万年筆の記憶



パーカー万年筆
  なにやらブランドの自己主張に傲慢さすら感じられる広告。
 コピーはグダグダで、意味をなしてない。

 今では万年筆の存在を知らない人もいるかも知れない。もとはインク壺からペンにインクを補充するところが起源だったのだ。それをタンク式にしたもの。
 それがいつでも自動でインクが補給できるということで「万年筆」。調べると英語では「fountain pen」と言うと出るが正直聞いたことがない。
 インクペンが使われなくなった今では万年筆を知らない人がいても無理もない。

 活字はフォントになった。印刷はPDFになった。「ポストスクリプトフォント」という言葉すら今では昔に思える。モリサワなど強欲な連中が権利にしがみついたおかげで、時代の方向はフリーへと転換した。アップル・レーザーライターIIの時代。外付けハードディスクにフォントが収納されていた。





 このパーカーというブランドの他に、モンブランという高級ブランドもあった。もっと廉価版の万年筆を売っていたのはシェーファー。日本ならオノト製というのがあった。
 


 うやうやしく文字を頂戴し、文章を書いた時代。
 ココロをこめて書いた文章を人に贈った時代。
 形のない、ココロというものをせめてのよすがにとインクに託すことが許された時代。そんな形式的なことだけで許された時代というのがあった。

 ハンコがあったから欧米風のサインはなかなか根付かなかった。万年筆はファッション程度の意味しかなかった。結局、日本はハンコ社会なんだと、うるさく言われたものだ。
 子供の頃、仕事カバンの中にいつも何種類か使い捨てのハンコを入れているという人がいた。何かあればそれで用を足すのだという。彼はよく非効率的な日本の習慣に馴染んでいたように見えた。タバコを吸う大人を見るような思い、大人だなと思ったものだ。
 社会というものが中身ではなくて形式で済んだ時代だったかも知れない。逆に人々にとっての中身とは家族だったり家だったりした。

 こんな昔の時代は、万年筆などでサインをするなどせいぜい小切手やトラベラーズチェックにサインをするぐらいのものだった。あるいは外国人との取引でのサインぐらいだった。
 それがどんな意味があるかは誰も何も考えなかった。日本はずっとそんな風に中身についての話を避けてきた。今はそれが逆回転しているように思える。
 アンワインドの時代。今は厳しく、高い透明性が求められる時代だ。

 そう考えると逆に今では自筆というのが再び煩く言われるようになった。自筆は遺言書だけでなく必須になりつつある。証券口座、保険口座、作る時にはしつこいほど自筆と言われる。あれはちゃんと利用と保存がされているんだろうか。金融庁の指導ってだけでは困る。
 筆跡の識別ソフトはあるが、ちゃんと金融機関は活用しているんだろうか。信じたいとは思うけれども。


 今ではネットこそが真実なのだろうか。新聞に書いてあることは嘘ばかり、はめ込みチョウチン記事で溢れている。ジャーナリズムすら簡単に手馴づけられ、改ざんされ捏造され、国を貶める害毒にさえなっている。どこにもペンの力など感じられない。
 

にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ   
この記事が悪くなかったらクリックをお願いします!

ブログ村プロフィール
にほんブログ村 その他趣味ブログ 昭和レトロへ
PVアクセスランキング にほんブログ村
toremaga_80_15_1_blk