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広告から思う

松田聖子とウォークマンと

seiko




 懐かしいアイドル。

 きっと「松田聖子論」というのが書けるほどのアイドルだと私は思う。

 まだ現役で活動している。

 つい先ごろには不幸にも実の娘が自殺してしまったことが世間を騒がせた。

 それを受けて離婚した前夫と会見。

 気丈にも聴衆に感謝の言葉を伝えた。


 まるで彼女を取り巻くことが全て、彼女の人生がまるで劇場ではないか。

 そう言ったら失礼だろうか。


 正直、ひとつの時代を作った女性だと思う。

 そして彼女は今でも「松田聖子」を追及している人でもあると思う。

 それはアイドルとは何かということ。アイドルはどうあらねばならないか、ということ。

 彼女は自分という「松田聖子」を追求し続けている。

 そんな生き様なのだと思う。





 アイドルというのは、消費されてはまた再生産されるもので、本来は我々にしつこくまとわりついてくるようなものではない。

 飾りであるし一時の慰みだ。

 ところが最近は違っていて、タレントとアイドルというのが混同されてしまい、消費者におもねってくるところがある。

 やたらとプライベートを晒したりSNSで呟いてみせたり、とにかく構って欲しいとやってくる。

 それは正直、辟易するような話だ。


 ネットポータルの芸能系のヘッドラインにはありがちなことだが、よく、「XXXがインスタで美脚を公開、ネットではキレイと賞賛の声」なんて話さえある。

 今どきはジェンダーフリーの社会が理想とされている。 「女性の美しさ」なんて言ってはならないものだ。

 そういう言い方には性差別的なことがあると言われているのに、これが平然と出てくることは実に不思議な話だ。


 もちろん、種明かしをすればそれは彼らタレントの自作自演のアピールだからに他ならない。

 そういうタレントたちは自分を注目させたくて平然と性差別的表現とされる話でも使ってくる。

 それ以外に彼らに出来ることはないからだ。

 とにかく露出し目立てないと商売にならないというわけだ。




 松田聖子という人は違うようだw。

 ほとんどそうした話は聞かない。

 最近のタレントやアイドルのようにしつこく我々にベタベタと絡んでくるところがない。

 松田聖子はその名前だけで存在価値がある。


 それが私には快適で、彼女を邪魔には感じない。

 忘れたと思えば再び出てきてどこかで何かをしていると仄聞する。 そしてちょっとは関心を持ってしまう。

 彼女はそんな人だ。


 彼女はまだアイドルとしての人生の途上にあるのだ。

 我々は松田聖子に付き合う必要はないし、ベタベタと彼女も消費者に擦り寄ってきたりもしない。

 それが彼女のアイドルのアイドルたる所以だと私は思うのだ。



 ある時期、この人は米国の「マドンナ」を模倣しているのではないか、私はそんなことを思うようになった。

 とてもよく似ていたからだ。


 もともと私は日本の芸能には興味がなくて傍観者ですらなかったが、ふと気がついたものだ。

 それはマドンナと松田聖子の共通点についてだった。

 それは「見ている側の思い込みを裏切ようとする」、そんな傾向に尽きる。


 いわゆる一般のアイドルとて、単なるアイドルからいつかは脱皮しようと誰もがもがくようになるものだ。

 「作られた商品」という、自分のアイドルの立場を全身で受け止めて生きていける人というのは意外と少ないものだ。

 結局は生身の人間だということを人に認めてもらおうとするものだ。


 その脱皮しようと、もがく過程で彼女たちは結婚をし、あるいは開き直り、あるいは自己をさらけ出し、カミングアウトさえし、彼女たちは自分の人生を取り戻そうとする。


 しかしそれはアイドルを信奉する人たちにとっては「卒業」であり、「終わった」ということに他ならない。

 そうしたアイドルは思い出になるか過去として忘れられるだけだ。


 それは裏切りと言ってもいいかも知れない。

 大衆にとってアイドルというのは、所詮はメディアの中で泳いでいる連中で、彼らの人生などどうでもよいからだ。



 ただ、この人、松田聖子のように、アイドルとして生まれ変わり続けようとする人もわずかにいる。

 それはとても目を引くものだ。

 飽きもせず、やはりアイドルとして彼女はステージ活動をしてゆく。


 言ってみれば言葉は悪いが、これは厚顔無恥というか、常にアイドルたらんとする姿勢に他ならない。

 これが我々には常に新しい。

 私のように松田聖子をよく知らない人間にとっても何かあると思わせるものがある。



 逆に、こうしていつも前へと進もうとする松田聖子のようなアイドルを嫌う人が多いことも分かる。

 それはかつての虚像を自ら打ち壊して変化しようとする、そんな彼女の矛盾に失望させられるからだろう。

 アイドルであるご本人が、消費者の夢を思い出としてそっとしておいてくれないのだ。


 アイドルがただ、「大人になった」というならその過去の思い出が破壊されることはない。

 それは「卒業」であり、今の姿は思い出として忘れ去られることになる。



 しかし、同じようにアイドルとして現在も活動し、以前からのイメージを変えてさえいる人がいる。

 変身してしまえば彼女への思いは打ち砕かれてしまう。


 所詮はアイドルというのはそうして消費されるものだから、そうした「前進」は裏切りとさえ映ることだろう。

 そんな風に見える松田聖子の生き方にはある種の「覚悟」があるのかも知れない。


 商品性を高めようとモデルチェンジを続けるのは当然の選択だからだ。

 いつまでも初期モデルにこだわっている古いファンなどどうでもいい。

 常に新しい松田聖子がいる。

 彼女の生き方はアイドルそのものであると私は思う。



 この松田聖子はデビュー当時は歯がチャームポイントだった。

 ソニーのウォークマンがヒットした後、このマッチングは秀逸だったろう。

 好む人は限られたかも知れないが彼女はアイドルとして作られた人だ。

 その初期の条件はクリアしていたのだろう。


 その上でのこの歯並びだったという記憶がある。


 郷ひろみと破局したと思えば、神田正輝と結婚し出産、彼女の人生のイベントの全てが彼女にとってはステップだったのだと思う。

 神田と破局すると歯科医と結婚し、離婚しても再び結婚した相手は歯科医だったというのは興味深い。


 そして娘だ。

 世間的には色々と言われているが、私は松田聖子の娘の自殺すら彼女の人生のひとつの物語でしかない。

 私は娘の事件での彼女の態度はそういう立場を示したものだったと思えた。


 松田聖子の人生が極めて特殊な人生であることは認めるべきだろう。

 それが「銀幕のスター」というものなのだ。


 世界を変えた商品のひとつとなったウォークマンに松田聖子が使われたのは象徴的だ。

 もうこの頃はウォークマンはスタンダードとしての地位を確立していた。

 「音楽を身につける」というコンセプトは今は常識となっているほどの革新を果たしたプロダクトです。







オーディオのオーレックス

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 「オーレックス」、とても懐かしい名前だ。

 すっかり忘れてしまっていたブランド名だ。「ローディ」なんてメーカーもあったのを思い出す。「Lo-di」と書いた。


 こういうオーディオセットをみなが欲しがった時代があった。

 主に若い男性だったがこんなのを手に入れるためにみなが仕事に向かったものだ。

 しかしデジタルになった今でもアンプだってあっておかしくないのに、なぜかあまり求められない。


 なんでも手軽になった割には一度捨てられるともう見向きもされない。

 変化とは後戻りしにくいものなのだろう。

 今、多くの人々は「アンプ」とか「音楽を聴くための機材のセット」と聞いてもイメージするのは難しいに違いない。



 それとも、オーディオセットには何か決定的な「醒めてしまう要素」があったのだろうか。

 
 次はテレビの番だろう。




 それにしてもこの広告、よく問題にならなかったものだ。

 蜘蛛恐怖症の人というのは少なからずいて、 ショックすら起こすらしい。


 しかし実はこんな症例が「アラクノフォビア」という名前で欧米から紹介されたのは昭和の後期のことだ。

 この広告の頃はまだあまり知られてはいなかったはずだ。

 だからこんな広告が可能だったと言える。


 ところが、「蜘蛛恐怖症」という症例が情報として入ってしまうと、自分もそうだと思い込む人々が増える。

 そしてひとつの病気として一般的なものとして定着する。


 それ以前には我が国に蜘蛛恐怖症なんてものはなかった。

 その証拠に文芸作品にもそんな題材のものはない。

 新たに入ってきた情報が人の意識に刷り込んでしまったのだ。



 ともかく、蜘蛛恐怖症は今では我が国でも普通の精神的な病質として認知されている。

 だから、今ならこんな広告には配慮とか要求されてしまうことだろう。

 「自分は蜘蛛恐怖症なのでショックを受ける。広告表現に配慮して欲しい。」なんて。


 笑ってしまうような人間の意識なのだがそんなものだ。


 ご本人が恐怖を感じるというのだからそうなんだろう、みながそう認めることで蜘蛛恐怖症は一般化してゆく。

 かかった人に思い込みだと言ってももう通じない。

 コロナ禍の現在でこういう話をすることは暗喩的だ。



 かつて、「ココロの病」としては「精神分裂病」という言葉が普通だった。

 今は「統合失調症」と言われるようになって久しい。

 精神崩壊だけでなく五感にすら異常をきたす場合があるから名前が取って代わられたのだろうか。

 
 しかしこの呼称が一般的になってから患者は増えた気がする。

 精神科も安易にクスリの処方をしてカネを稼いでいるというから始末に置けない。クスリへの依存でますます精神的に病んでいく。逆説だ。


 そもそも自分は狂っていると認めるのは難しくとも、自分は統合失調症なのだと言うのは簡単だ。

 それだけ今は一般に「統合失調症」が定着してしまった。

 そうして自己催眠や暗示が加わりおかしなことになってゆく。


 狂った自分との付き合い方を考えれば折り合いはつけられるものだ。

 ただ「狂っている」なんて誰も認めたくないものだ。

 しかし今の世の中は狂ってはいまいか(笑)。忌避すべき言葉でもないだろう。



 もうひとつ、この広告には昭和ならではの古い表現が見られる。

 悲鳴のことを「絹を引き裂く」としているところだ。

 鞍馬天狗じゃないのだからちょっと今は通用しそうにないw。

 塗り替えられる言葉もあれば消えてゆく言葉もあるということだ。

 今はシルクの価値はみなが知っていて希少でもある。絹を引き裂くなんてあまりリアリティが持てそうにない。



 また、この「絹を引き裂く悲鳴」はワットで喩えられている。

 「ワット」?、これも今ならデシベル以外の何ものでもない気がしてしまうのは我々の時代から見るからだ。


 そしてオーディオセットの写真横の訴求文を拡大して読んでみると面白い。

 「音のリアリティは音量の問題です。」とあるのだ。「ハイパワー」なんて、そんなのを追求されても困るだろう(笑)。


 この頃、確か騒音殺人など騒音のトラブルが頻発したはずだ。

 そう。オーディオセットは騒音の問題で廃れたのだった。

 今はすっかりイヤホンにとって代わられた。







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