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 エアチェック、それは音質のよいFMステレオ音源から曲をダビングすることだ。

 これが昭和の時代は盛んにやられていた。

 「流行していた」というわけではない。録音するには色々と手間でもあったし、生放送で、ラジオにかじりついて録音のタイミングを計る必要があった。

 エアチェックは、音楽が好きな連中にとって、ごく基本的な「生活の知恵」のようなものだった。

 それでレコード代が浮いたからだ。


 いちいち馬のものとも山のものとも知れない音楽を、それこそ試し聴きさせる店もなく、レコード店で買うしかなかった時代だった。

 レコードを売ってる側も、A面B面、シングルだのと詐欺的な商売をやっていた。

 クソ曲を抱き合わせ商売のようにもしたりした。

 シングルを出して世間をいっとき騒がせ、まとまって出たアルバムは他の曲がクソ、そんなことが普通に行われた。


 そうなればどうしたってみんな警戒するようになる。

 そこで曲紹介のためのFMラジオ放送からカセットに録音がされるようになり、こんな広告のように機材の市場も盛り上がった。

 FMラジオは音楽好きのための、楽しみの音源だった。


 ラジオからダイレクトにカセットに録音し、音楽を楽しむということが行われたのだった。



 この動きに音楽業界から抗議があったという話は聞かない。

 だから現在のような動きとは明らかに矛盾する。
 例えば今、Youtubeには版権で権利者からのクレームが激しくある。

 今とどこがちがうかというと、昭和の昔はどちらも共存関係にあったからだ。

 音楽需要が盛り上がるためにエアチェックが黙認され、FM放送も多いに盛り上がった。


 ラジオのエアチェックがなぜ放置されていたのかと今を較べると、音楽産業というものの寄生虫ぶりがよく分かる。

 彼らはアーティストからピンハネをしまくっているので、市場が大きくならなくてはアーティストは食えなくなってしまったということなのだ。




 このエアチェックに関して、一説で流布された風説に、「所詮ラジオとデジタルは違う」というものがあった。

 つまり、FMラジオがいくら音質がよいとしても、ラジオで録音されたものは何度か聞いていればいずれ音質に不満が出てくる。だからレコードを買ってくれる。

 ラジオの放送は宣伝みたいなものだ。音質も悪い。

 コピー劣化のないデジタルとは違う。
 
 そんな説があった。


 だが、それは嘘だったと思うw。

 人間は慣れる。
 たいしていい音質でなくとも、FMからエアチェックしてカセットに収録したものはみんなそのまま聞いていた。

 何もレコードなど買う必要はなかった。

 わざわざFM放送をエアチェックして録音する労力を厭わない人々はそれで満足した。

 そんな手間を省きたい人はレコードを買ったというだけだ。


 要は市場のボリュームの問題だ。


 本来、もともと音楽など、日々の暮らしというより特別なところでかかる特別なものだった。

 日本人というのは静かな暮らしをするものだ。

 お囃子、音楽など特別な時にかかる特別なものなのだ。


 レコードなど買う需要が少なかったから、それをラジオで流し、なんとか盛り上げようとしていたに過ぎない。

 


 そうしてエアチェックが盛んになると、今度は一時、FMではワンコーラスだけ、トゥコーラスだけでフルコーラスはかけないというようなことがやられるようになった。

 盛り上がれば押さえつける。いつもの繰り返しのマッチポンプだ。


 とんでもない駄作に混ぜてヒット曲をレコードにして売っているくせに、その態度は何だ。消費者はそっぽを向いた。

 貸しレコードという新業態も生まれたが、結局は同じもの、同じエアチェックした曲をアルバムで借りるだけだ。アルバムの中に混ぜられている他の曲はつまらない。

 その中味はまとまらない、つまらない抱き合わせのインチキなものだったと分かってしまう。


 そうしてまた需要が盛り下がった。

 結局、暮らしの中ではラジオでもつけていれば問題ないということになってしまう。

 ラジオはかけるたびに僅かの著作権料を払っているから本来はそれでも構わないはずなののだが、産業界というものに特有の強欲がある。


 そうして、またエアチェックを放置し、著作権などといいつつ実に曖昧なまま運用を続けた。


 いずれYouTubeの規制が厳しくなればまた音楽は衰退するだろう。

 誰もが聞きたい曲などこの世にはない。

 うるさい音楽など店やイベントでかかっていればよい、というわけだ。



 そうして音楽産業は需要の減退と盛り上げを繰り返してきた。

  もともと、考えてみればエンターテイメントなど不要不急の需要に過ぎなかったのだ。

 今、特にJ-POPだのK-POPだのの押し付けがましさ、いかがわしいほどにマルチ商法的な曲の押し売りを見るにつけ、本当にそう思う。

 「音楽がなくてはいられない」なんてことは嘘なのかも知れない。

 それはちょっと昔の暮らしを思い出せばわかることだ。


 あるいは、「いるか」だの「中島みゆき」だのの曲を、押し付けがましく学校のコーラスで歌わせたことは今の店舗でかかるJ-POPの押し付けがマシさに通じることだと思い出す。

 あれで歌わされた曲をいい曲だなんて思えなかった。

 集団行動に強制されたため、そんな曲は二度と聞きたくないし買うなんて馬鹿しかないと思ったものだ。


 音楽というものは素晴らしいかも知れない。

 しかしそれは商売になるようなものじゃない。購買は自発的なものだ。

 音楽業界はそうやって我々消費者が自然に手を伸ばして買うことを阻害し、自身の首を絞めてきた。


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