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サングラスをしてイキるw

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 何かと思えばサングラスのコマーシャルだったw。

 当時の男性にとってサングラスというのはこんなイメージなんだろうか。

 ハッタリ、イキガリ、なんとも古臭くて、今から見るとハードゲイの世界のようにさえ感じてしまう。


 この点は説明が必要かもしれない。

 ゲイというのはもともと繊細な人々だ。

 レズビアンが肉食なのに対してゲイは草食だと言える。

 ゲイがこんな風に「イキる」というのは、いわば自己防衛のためで、こんな感じで突っ張っていれば絡まれることはないからだ。

 昔はゲイというだけで絡まれたものだ。

 自分がゲイの気があるんじゃないかと密かに怖れる男たちは逆キレしたようにゲイを攻撃した。


 今でもゲイをやたらと忌み嫌う男というのはいる。

 だから、こういうスタイルというは彼ら特有のセンスなのだ。

 知らないで真似をしてしまうとちょっと恥ずかしいものがあるw。





 もちろん、サングラスはそんな伊達ばかりの目的でもない。

 サングラスは眼を守るためには絶対に必要な場合がある。


 スキー場では裸眼は禁物だ。

 要は何事も時と場所ということ。

 
 在日アメリカ軍では「サングラスなどするな」というキャンペーンをずっとやっている。

 カッコをつけたヤクザ者が駐留アメリカ兵では洒落にならないというわけだ。


 それと同じように、「タトゥーはキャリアに影響がある。入れたタトゥーをなんとかしたいなら相談に乗る」、なんてキャンペーンも米軍はやっている。

 人生の落伍者になりたくなければ入れたタトゥー取ることを真剣に考えたほうがいい、なんて言っている。

 それはFEN、アメリカ軍のラジオ放送での公式のキャンペーンだ。


 日本にはそんな情報は隠されているのか、サングラスをかけたタレントがいるし、「タトゥーを認めろ」なんてどっかの勢力が運動をしている。





 古くは蘭学などといって我が国は西欧の知識を吸収しようとした。

 「日の本は遅れている」などと言って、西欧に追いつこうとしたものだ。


 今は逆に世界の潮流から取り残されつつあるのか、どうにも心配になってくる。


 その一方では狂ったような歪んだ世界の潮流というのはあって、そんなBLMとかLGBTなんて妙な運動は入ってくる。

 日本にはほとんど差別というのがないので違和感しかない。


 いや、ヤクザ者を区別したり、在日、それも反日勢力を白眼視することは差別でもなんでもない。

 かつてのアメリカの黒人に対するような差別、そうしたものは日本ではないと言っていい。


 「差別がある」などとする連中には必ずなんらかの動機がある。

 それは自身に都合がいいように論理を拡張させようとしている場合が多いのだ。


 「太陽へ向かいはじめた。」これはこの広告のコピーだ。

 それが正義へと向かうということならいいかも知れない。

 人間なら陽の当たるところを生きてゆきたいものだ。



 もちろん、日食がその一番の機会だろうが太陽を決して直視してはいけない。

 最近はあまりこのことが言われなくなった気がする。

 太陽、ってコロナが中で燃えているのだがw(笑)。


 日食をつぶさに見ようなどとして双眼鏡など使えば瞬時に失明する。

 そういう誘惑を感じることはある。ちゃんと知識の鎧で守っておいた方がいい。


 「見える」ということは焦点が合うということだから、ピンポイントで眼球を太陽光線が直撃し失明するのだ。

 それを防ぐほど光を遮断するサングラスはない。



 今、とても常識というのが見えにくくなっている世の中だ。

 世の中はサングラスのかけ過ぎなのではないか。

 そんなオチか(笑)。






写真は道具か実力か、はたまた心か

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 一眼レフの広告が続いている。

 これはスポーツとその感動の瞬間を「撮れる」というアピールがある。


 スポーツなどこの前の東京五輪ですっかり醒めてしまった感があるから少し白々しい。

 人が走るのを見るより自分で走っていたほうがよっぽどいい。


 人のやる競技を見てもそれはあくまで擬似的なスポーツ体験、それは偽のものだ。

 あるいはゲーム観戦と言ったりもする。

 それは「スポーツ」ではない。





 この広告では「人間性を撮る」 なんて言っているのだが、この時はどうだか知らないが、カネに狂った今のスポーツでどうだろうか。

 こんなオリンピックなどで喜ぶ人間性など楽しみに飢えているだけの寂しい心しかないのではないか。

 そこにはきっと愚かな人間性しか見えないはずだ。


 結局、「現場を見ている」的なアピールの裏がこれだ。

 報道とはそのストーリーを語れる場面に出くわしてシャッターを切るのに対し、これはそのシャッターを切らねばならないその決定的な場面だと俺は分かるのだ、そんなアピール。


 いわく、我々には人間性が分かりレンズを通してその表現が出来る、というわけだ。


 なんという傲慢な偽善だろう。

 そんな自己アピールをして商品であるカメラが売れたのだろうか。

 この広告は、だからカネを払うべき才能があるとしているのだろうが、そんなものは才能でもなんでもない。

 こういうのが「感動の押し付け」でしかないのは今も昔も同じなのだ。





 かつて写真機に多くの可能性を感じた人たちがいた。

 マン・レイなどはこの写真機という道具を使い興味深い写真を作った。それはひとつの表現だった。

 彼はよく写真というものを理解していた人だと思う。

 その場面を切り取るという、写真機という道具自体を表現してみせたのだ。


 今からすれば古臭くて底が割れてしまうものだが、この広告の当時はそうした道具を使う主役は自分であるというものだ。

 昔はどんな偽善となろうとも平然と「実力がある」などとアピールしたものだった。

 結局は写真機の性能でしかなかったのだがw。


 こんなアピールがこのカメラメーカーの広告でされたことは皮肉でしかなかった。


 あたかもどんなカメラを買っても、写せるものは限られているのだと、所詮はプロには勝てないものだとアピールしてしまっているからだ。

 どれだけこの商品広告が販売に寄与したか、それは分かりようもない。





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